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大胆なレイアウトとコントラストの効いた色彩。Vittorio Fiorucciのポスターと向かいあうとその斬新さにまず目を奪われる。そしてじんわりと浮かび上がってくるユーモアに思わずニヤリとさせられる。幾度となくクライアントをヒヤリとさせてきたのではないかと思われるそのユーモアはダークであってもギリギリのところで下品ではない。彼の作品は優れたポスターである、つまり瞬時にメッセージを伝達しグラフィックとして美しい、と同時にウィットに富んだユーモアとは決して後味が悪いものではなかったと思い起こさせてくれる。 ケベック美術館で開催されている回顧展『Viva Vittorio』は50年代から現在までに作られたポスターを中心に写真やドローイングなどポスターアーティストという枠に納まりきらないVittorio Fiorucciの軌跡を辿るものだ。今回の取材は旧市街にある彼の自宅兼アトリエで『Viva Vittorio』展の出展作品について話してもらうという切り口で進められた。
これはオタワにあるアートセンターの10周年を記念するポスターです。この作品にはギリシャ、ローマ、トスカーナの影響が見られますね。このようにポスターはいつも文化に裏づけされているのです。案外忘れられがちですが文学作品なり演劇ピースなり歴史的背景や文化を無視して作品を作ることは不可能です。例えば抽象画には文化は必要ありません。私はいいペインター、或いは腕のいい彫刻家になることができたかもしれませんがポスターが文化を介しているという側面に惚れてポスターを選びました。そしてこれは何度も繰り返し言っていることなのですが、ポスターはストレートに大衆とコミュニケートできるアートなのです。 Vittorio Venise Valcourt (2002) これは私のカナダでの50周年記念にヴァンクーバーで行われた展覧会に向けて作ったポスターです。私はヴェニスで育ったのでこのタイトルをつけました。生まれはヴェニスではありませんがね。ポスターのレイアウトはハサミを使ったカットアウトかマーカーでラインを引くかのどちらかですが、これはカットアウトの手法を用いた作品です。66年の作品と2000年の作品に違いがあるのは当然ですが、駆け出しの頃から現在に至るまで私の作品には一貫したスタイルがあります。あるアメリカの作家が言いました。決して作品に制作年を記すべきではないと。年月は廃れるものです。私自身ドローイング以外の作品に制作年を記すことはまずありません。一生というスパンで考えた時、ある作品が昨日作られたのか50年前に作られたのか、それ以上伝える必要はなないと考えているからです。 --- ハサミでのカットアウトとはユニークですね。 子供の頃、周りの子供たちはお絵かきに夢中でしたが私は絵を描いた覚えがないのです。その代わり暇さえあれば紙にハサミを入れて飛行機や車を作って遊ぶような子供だったわけです。
--- カットアウトの手法を用いる際、カラーリングはどのように行いますか?
Les Olympiues de montréal 1976 (1976) --- コミッションワーク(依頼作品)ではないということですね。 依頼はありませんでしたが何か出来るとわかっていたのでとりあえず作品を作って街に貼ったのです。75枚限定でしたが新聞で取り上げられたので当然オリンピック委員会の目にも留まることになりました。 --- 注目を集め同時にメッセージを伝えるということがポスターには求められますね。そしてそれは一瞬にして行われなければいけない。 注目は必要です。ただし作品は最終的に自己満足できるものでなければならないのです。ポスターはアートとしての認識度が低いですがアートとしてペインティングと同じだけの価値があるものだと考えています。
Vittorio FiorucciはコメディフェスティバルJust for laughsのマスコットの生みの親でもある。現在のデザインはVittorio Fiorucciの手を離れているということで初期キャラクターの「bonhomme」からは程遠いものとなってしまっているが、「bonhomme」の原型は30年近くの年月を経てThe Scarlet Claw Publishing Inc.から再発された『Vittorio's Dog Book』に見て取れる。小型カレンダーの裏紙に一週間で描かれたというオリジナルドローイングに新たに5枚の新作が加わった同書は描写の過激さゆえに70年代に発売禁止に指定されたという過去をもつが、その内容は人間の心理を痛快に描くヒューマンコメディと言ったところ。偽りがなく表層的なものや人を見透かすようなVittorio Fiorucciのユーモアはここでも健在だ。 もちろんです。私は19歳の若さでカナダにやってきました。年より老けて見えたのもあってコメディアンとして一人舞台に立ちました。多くのイタリア人達を笑わせましたね。お世辞が通用するカナダ人とは違ってイタリア人にとって面白くないコメディーは許し難いものですから私には才能があったということでしょう。とにかく、3回ほどコメディアンとして舞台を経験した後、俳優にならないかと声を掛けられたのですが、私にとって人の書いた台詞を読むなんてことは問題外だったわけです(笑)。 --- では、作品に見られるユーモアも周りに影響されたというより本能的なもの。 そうです。ユーモアは常に「可笑しくて笑ってしまう」という類のものではありませんね。皮肉を交えたユーモアがベストだと思うのです。 --- 皮肉は永遠であり一般的な感情ですね。 『Vittorio's Dog Book』に関して言われたことがあります。50年後に手にとっても笑える本だと。これは重要なことなのですが、流行に媚びへつらわないことです。流行はいずれ廃れ消えていきます。例えば私のコレクションに1900年代の政治を扱ったカトゥーンがあります。ドローイングとして大変素晴らしいものですが政治風刺については残念ながら良さが分かりませんね。 「来客があると一枚描くことにしているのです。」そう言って黒のフェルトペンを片手に自身のキャラクターを描いてくれたVittorio Fiorucci。すらすらとペンを滑らせる様子は即興パフォーマンスさながらで圧巻。もちろん「即興」という言葉がジャクソン・ポロックのアクションペインティングの様に瞬間を捉えるというものであれば、自身のキャラクターの事細かな動作まで把握しているVittorio Fiorucciの場合は頭にあるイメージの「転写」ということになるのだろうが。 --- 最後になりましたが作品作りにおいて影響を受けるものについて聞かせてください。 まず私はつぶさに観察することを怠りません。物や他人に興味を示さない人というのも存在します。自分にしか興味がない人ですね。近頃思い出したことなのですが私が2、3歳の頃、物心ついた頃から常に「誰が」「いつ」「どうして」という疑問を抱いた好奇心旺盛な子供でした。成長とともに本や映画など情報を蓄積していく段階である専門的な知識だけを増やしていく人もいますがそれ以外のことについてはどうなるのでしょうか。 --- ある分野だけを突き詰めていく人は芸術家か工芸家という例えにおいて工芸家ということではないでしょうか。その人は彼の分野においてプロフェッショナルなわけですよね。 私の意見では彼は必ずしもプロとはなりません。近頃は誰も彼もがプロフェッショナルになりたがりアマチュアという言葉が響きの悪いものになってしまいましたが、本来アマチュアという言葉は何かが本当に好きな人を指します。ここで面白いのは、あなたが心底好きな何かに本気で打ち込むとしましょう。あなたがその何かを本当に好きであってこそあなたは初めて本当の意味でのプロになれるということです。360度周りを見回してもあなたは唯一の存在になりうるわけです。何故ならあなたの興味は本物だからです。 プロフェッショナルである以前にアマチュアであるべきだと言う言葉が印象的なVittorio Fiorucciの回顧展『Viva Vittorio』はケベック美術館で2004年2月29日まで開催されている。
ケベック美術館 『Viva Vittorio』サイト:www.mnba.qc.ca/ | ||||||||||||||
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取材・文:Kanako Izawa ポスター写真:IDM、ケベック美術館 | ||||||||||||||
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