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映画プロデューサー、ユリ・ヨシムラさん (2006/2/1)
ピープル
Credit: 阿頼耶文空
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 一つの映画が脚光を浴びる時、世間の注目の多くは監督や主演俳優達に集まる。表舞台に立ってカメラのフラッシュを浴びるのが監督や俳優なら、映画の事実上の責任者として、裏方に回りながら製作から配給までの長いスパンを預かるのがプロデューサーだ。2005年のモントリオール世界映画祭で最優秀監督賞、観客賞、国際批評家賞など多くの賞を獲得した日加合作映画『KAMATAKI窯焚』のプロデューサーであり、クロード・ガニオン監督の奥様でもあるユリ・ヨシムラさんに、プロデューサーというお仕事について、また2006年3月にカナダ国内で公開予定の『KAMATAK窯焚』についてお話を伺った。


--- プロデューサーのお仕事とは?

 「プロデューサーとはその作品の全責任を負う人です。金銭的なこととか、スケジュールとか、配給とか、作品の全ての責任を負う代わり、全ての決定権もある訳です。白紙の部分から物を作って行く仕事なので、大変やりがいの大きな仕事だと思います。ただしリスクや責任という点ではプロデューサーは大変です。俳優、キャスト、監督、シナリオライター、スタッフ、ポストプロダクションなど、一つの作品で少なくとも50名から100名の人たちと関わり、ある意味、その人達の生活まで背負っているというのはちょっと大げさですが、それが事実なんですから。
 例えば映画は制作しますと言いながら、中断したり、中止になったりする時もあるわけです。ところがプロデューサーは前々からその人達のスケジュールをリザーブしていて、またそうしないことには、映画製作にゴーサインが出た時に人が居ないと困るわけです。その人達は私のために他の仕事を断ってまで、スケジュールを空けていてくれたりしますから。ですから私の作品が実現出来なかった場合、スタッフやキャストとしてはその間の収入が無くなるわけですから、プロデューサーには責任がすごくのしかかるわけです。一方監督は作品のクリエイティブな面での責任を負う人で、作品が仕上がった後は、監督の任務は終わりと言って良いでしょう。『KAMATAKI窯焚』で例えると、ガニオンなど今は各地の映画祭等に作品を持って出掛けて行っていますが、気持ちの面でもう次の作品に向かってます。しかしプロデューサーの責任は、映画が仕上がった後も宣伝、配給、、、、とずっと続くのです。
 一つの作品で最低5年は付き合いますね。特別なものには、昔製作した『冬物語』(1998年)という作品などは、最初のアイデアから製作までに10年くらい掛かっているんですよ。原作権を買い、ライターを選んで脚本を書かせて、気に入らなくてリライトして、リライトして、お金を集め始めて1年目は上手く行かず、その次の年に上手く行って、やっと撮影して、公開して、世界の映画祭や他の国の配給会社に持って行ってと数えると15年です。」

--- 多様なプロデュースの形

 「作品の成り立ちには2種類あって、プロデューサー先導のプロジェクトと、まず監督ありきのプロジェクトが在ります。『KAMATAKI窯焚』に関しては、監督ありきのプロジェクトで、プロデューサーとしては、ガニオンのオリジナルストーリーですから、彼の意向ですべてをやらせてあげようという姿勢でした。プロデューサー先導というのは、プロデューサーが今の時代にこういう作品をやったら良いのではないかとか、どうしてもこれをやりたいというのがあって、そこから物語を作品化するに相応しいライターや監督を選択して決めて行くというもの。私自身はこれまで二十数本の映画を制作してますが、その両方の経験があります。
 またプロデューサーからシナリオ、監督、予算、スケジュールが決められた作品をポンと渡されて制作に携わるラインプロデューサーという人もいます。『KAMATAKI窯焚』の場合、まず監督先行のプロジェクトで、低予算だったこともあり、ラインプロデューサーを雇う余裕が無かったので、プロデューサーである私と息子のサミュエル・ガニオンが全てをやりました。その他、エグゼクティブプロデューサーやアソシエイトプロデューサーという名前が時々、クレジットで出てくるのですが、これは、資金など様々な面で協力、参加し、サポートしてくれた人の事を言います。でもとにかく何も付いていないただのプロデューサーという人が苦労が多い分実は一番偉いのです。アカデミー賞でも何でも作品が評価され、賞を頂くのはプロデューサーなんです。」

--- 『KAMATAKI窯焚』におけるプロデュースの実際

 「『KAMATAKI窯焚』の場合、まずガニオンのやりたいことがあって、プロジェクトが立ち上がりました。まず彼は日本に陶芸のリサーチに行き、シナリオを書くのですが、私自身はガニオンからシナリオが仕上がって来るまでは割と暇でしたね。シナリオが上がって来た時点でプロデューサーの仕事が始まります。具体的にはまずブレークダウンというものを助監督に出してもらいます。シナリオをきっちり読み込み、キャストの人数、ロケーションの数、コスチューム、小道具など撮影に必要な物を振り分けしてもらうのですが、この作業をやると、シナリオをきっちり把握でき、各シーンをきっちりシーンナンバーで記憶出来るくらいになります。現場でスケジュール管理等をするのは助監督なので、一番適任でしょうね。このブレークダウンは専門の人に発注する場合もありますし、ラインプロデューサーがやる場合もあります。
 さてブレークダウンが出来たら、それに沿って予算を組むのですが、カナダの場合は、組合によって各スタッフの時給やペナルティー料などが細かく決められているので、組合の規約に沿って予算を組まなければなりません。そうやって作品の基礎となる部分が決まって来ます。
 予算を組んだら今度はラインプロデューサーや、ラインプロデューサーが雇ったプロダクションマネージャーという人が、その予算に沿ってスタッフ、キャストなどを雇い、ロケーションも決めて行きます。映画製作の資金繰りは、書類がきっちり上がってこない段階では出来ません。カナダですと、映画の製作資金はTelefilm CanadaSodecという連邦と州政府の映画公社やテレビ局、配給会社などに出資の申請をすることになります。そこから返事が来るまでが、また非常に長いのです(笑)。制作資金が下りないと制作に取りかかれないのですが、『KAMATAKI窯焚』では、出資の申請をしてすぐにオーディションを行い主役にマット・スマイリーを抜擢しました。『KAMATAKI窯焚』の場合は、ここまでの仕事を全部プロデューサーがやっています。
 制作資金は政府が出すものですから、カナダという国から掛け離れている内容だと下りない可能性が大きいです。幸い『KAMATAKI窯焚』は、ケンというカナダ人の若者が日本へ行くという話で、ぎりぎりで制作資金が下りました。申請が通らない事ももちろんあります。ケベックで1年に3本のメジャー映画が作られるとしたら、その陰に30以上は泣いているプロダクションがあるくらいなんですよ。だから実績の無いプロデューサーには厳しい世界です。
(ガニオンの作品というのは基本的に、起承転結があって物語がどうのこうのという作品ではないんです。シナリオを読んでも判る人はあまりいない。シナリオの中にどういうことが言いたいかということがあるわけだけれど、はっきりとそれが表面に出てこないやり方だから、自分がどこまで言いたい事を現せるのかなというところと、現せるようにするにはどうしたらいいのか?ということしかないんです。しかも言いたい事を人に分からせなければならないし、かといって説明になってもいけない。だからそういう部分がとても微妙で、そういう部分をサポートしてゆくというのが私の仕事でした。ガニオンが本当にやりたいことが何なのかと常に自問自答していました。そして撮影中は監督が思っている事が全部撮れるよう配慮していました。)」

--- 『KAMATAKI窯焚』製作の苦労

 「プロデューサーとして『KAMATAKI窯焚』の制作では、色々と苦労はありましたが、私はあまり苦労を苦労と思わない人間ですし、この映画ではスタッフのコミュニケーションも上手く行ったし、苦労よりも、逆にすごく恵まれていたと思います。まず3年前に信楽焼の大家、神崎紫峰先生との出会いがあって、映画制作が両手を広げて迎えられたって感じ。それに甘えている部分もあるけれど、色々な人たちが上手い具合に協力してくれて、上手く人に出会えて、全ての物事がとても上手く行きました。主演の藤竜也さんとの出会いもそうですし、吉行和子さんともそう、ケン役のマットもそうだし、NHKのプロデューサーの磯辺さんともそうです。藤竜也さんが映画祭で”観客からありがとう”と言われたと言っていたけれど、この映画の根底には「ありがとう」という精神が流れていると思います。皆の優しい気持ちで出来たという作品。問題があるとしたら、プロデューサーの至らぬ所だけですね。」

--- プロデューサーになったきっかけは?

 「小さいころから油絵なんかをやっていたけど、別に映画少女という訳でもなかったんです。創作と言えば昔からバレエをやっていて、年に何回かステージを作る事がありました。劇場を借り、ストーリーを考え、振付けし、音楽を付け、小道具・大道具を揃えるという行程、まさに映画作りとほとんど同じなんです。でも映画がバレエのステージと違うのは、そのフィルムが後に残るという事。映画は作品として残る総合芸術です。
 70年代に京都でフランス語を教えながら映画を撮ろうとしていたガニオンと知り合って、一緒に『KEIKO』(79年)という作品を作り始めて、映画に開眼しました。大変だったけど、何も無い所から作品を作って行く事の満足感がありました。
 当時のガニオンは、ドキュメンタリーは2、3本作っていたけど、大きな作品は『KEIKO』が初めて。『KEIKO』を作るため、私は実家を抵当に入れたんですよ。スタッフ達はタダみたいなお金で参加してくれたけど、35ミリフィルムは高いですから。実家で合宿状態で撮りました。当時の私は16ミリと35ミリの違いも判らないくらいでしたね。でもまあ作っちゃったんです。ガニオンが全部、教えてくれて、そうやって作品が完成して、その後はどうしたらいいの?ああ、配給会社っていうのがあるんだーってことで、出来上がったフィルムを担いで、東京の各配給会社を訊ねて回りました。ほとんど全部、断られたんですが、最後に'面白そうだね'って言ってくれたのがATG(アート・シアター・ギルド)。拾われたみたいな形だったけど、劇場公開したら大ヒットで(桃井かおりさん主演の『もう頬づえはつかない』と二本立てで上映された)そしてこの映画でガニオンは日本監督協会新人賞を貰いました。あの作品のヒットが無ければ今の我々は無かったってことですね(笑)。当時、あの映画は日本のヌーベルバーグだ、革命を起こしたって他の監督達の間でも言われました。」

--- 夫婦で監督・プロデューサー

 「そういう夫婦、結構いますよ。(日本では故岡本喜八監督、岡本みねこプロデューサーがそうですし、)カナダでは『皆さん、さようなら』のドニ・アルカンもそうですし、結構居ます。監督、プロデューサーがお互いに言いたい事が言えるという意味で夫婦で監督、プロデューサーというのは、とても良いと思います。言いたい事を言い合って喧嘩になっても、最終的な喧嘩にはならないですから。監督とプロデューサーってケンケンガクガクな所があって、たまには監督と喧嘩して別れることになることもありなんです。 その点、夫婦だと気楽ですね。最後の底辺のところでは理解し合ってますから、どちらかというとやりやすい方だと思います。逆にあまりにみじかなので、余計な事を言って怒らせたり(笑)という弊害もあったりして、まあ善し悪しです。」

--- プロデューサーから『KAMATAKI窯焚』の観客へのメッセージ

 「主人公ケンの成長過程を見て欲しいですね。窯焚の火を発見し、どう人間として成長してゆくのかという部分がキーポイントだと思います。この映画には人間にとっての大切な5つの要素(火、土、水、木、メタル)の全てが詰まっています。作品の至る所にメッセージや哲学が詰まっている。それがどこまで観客に伝わるのかは別問題だけど、オープンな気持ちで観て下されば、分かって下さるようで、私も分からなかったようなさまざまな意見を聞いたりしました。今の若い人には特に観てもらいたいですね。観て考えて欲しいです。最近の日本のソサエティは完全に受け身になっていると思います。少々ぼおっとしてても生きて行ける国。映画にしても何にしても説明過多が浸透しているような気がするので、ひょっとしたら『KAMATAKI窯焚』が分からないって人も多いと思いますが、そこで一歩踏み出して考えて受け止めて欲しいと私は願っています。」

取材・文・表紙写真撮影:藤本紀子


ウェブサイト:窯焚